農法について

<農法について>

私、野村が一目惚れしたこの茶畑で作られる茶葉は、

基本的に農薬や肥料など、お茶園の外から何かを持ち込んで、

お茶園に撒いたりは行っていません。

「基本的に」なので、自分たちに虫除け振ったりすることもありますけれど。。

 

無農薬・無肥料、と書くと一般には「自然栽培」と呼ばれます。

私たちも、便宜上そのように表現することも多々あります。

ただ、もう少し丁寧に説明をさせてもらうと、

間-あわい-の農業をしている、と思っています。

 

<間-あわい-のお茶>

 

農業って、こう、「はざま」感があるんですよね。野村的には。


山でもない、海でもない、都市でもない。
よく農業を語る言葉として「より自然な」
とかあるじゃないですか。


無農薬・無肥料でやってて「自然栽培です」
とか言ってると(言っちゃってますけど)
「やっぱ、より自然な作り方が一番ですよね!」
みたく言われて。


いや、農業ってめっちゃ人工的な行為ですから。
と思うんすよ。
ありえない高密度でおんなじ植物ぎゅうぎゅうに育ててますし。
お茶の木とか人間の都合に合わせられて一律に形揃えられてますし。


実は、そもそも「自然」って単語もちょと思うところがありまして。


昔、移住して農業始めたばっかの頃に
在来種の保全活動をされている方とお酒を飲み交わす機会がありまして。


「俺自然栽培でやってんすよー。」とヘラヘラ語ったら


自然」とは、「自ずから然(しか)らしめる」と書く。
山河や草木をそのように
「ひとりでに生まれて、育って死んで行く」
というような感性は日本にはなかった。

これは、「nature」という言葉の対訳を探した際に、
仏教用語から引っ張って来たもので あって、
我々が古来か使っている言葉では無い。
君の言う「自然栽培」とはなんや?

と問われたんですよね。

その時に「ああ、何も考えずに自然栽培とか連呼してたなー」
と反省したんです。


ちょっと話は変わって、
うちの父の家系に山伏の人がいたんですけど
山岳信仰って、山に入って修行して何を目指すかというと

「入我我入」

って言いまして
お釈迦様の中に、自分が入って、
自分の中にお釈迦様が入った状態になることらしいんです。


なんか、この感覚ってアジア的・日本的なんかもしれんと思ってまして。


例えば、和歌なんかだと、
花や草木に自分の事をなぞらえる歌が多いんですよね。
(あの桜のように私の命も散ります。みたいな)
ああいうの、欧米的な感性だと全く判らんらしくて。


「目に見えるものも自分の一部であり、私自身も目に見えるものたちの一部である」
という感じ。


言葉って、我々の感性をある方向に集約させる強い力を持つので
(例えば「黄色」は現実には様々なグラデーションがあっても、「黄色」という集約された感性を位置付ける)


今やすっかり定着した「自然」って言葉も、
ある方向へと感性を集約させる感覚を持っていて、
それは確かに西洋的・キリスト教的・一神教的なのかもなーと。


「「より」自然」とか。
神から順位がついている一神教的かもなーと。


多分「「より」山河」とかは無い。


だから、「あわい」って感覚を大事にしたいなと思ってるんです。
「あわい」は漢字で「間」と書きます。


人間が全く手を入れない世界は荒ぶって住めないし農業も成立しない。
かと言って工場で製品を作るように、
化学薬品を駆使して遺伝子まで制御して作ろうとする作物は
なんだか味気ないし、ちょっと怖い気もする。


その両極端の間にある、自分にとっての心地いい位置。

ビシッと境界線があるんじゃなくて、「この辺かなー」という感じ。

現時点では、自分にとってその位置が
「無農薬・無肥料」なんです。

「仙霊」って漢字も、
仙霊茶の歴史」で書いた「七碗詩」の

六碗通仙霊
六碗目を飲めば仙人に通ず

から来てるんですけど
「仙人」も人と神様の間みたいなもんよなーと。
神にはとてもなれんけども。
人からはちょっと遠ざかってるよと。


「仙霊」「SENREI」
も、この「あわい」の感じを大事にしたいし、
 それを農法含め色んなところで体現できたらいいなあと思っております。


すげえ抽象的ですけど。
長文お読みいただきありがとうございます!